第3回 二胡倶楽部「二泉映月」代表 笹本二郎さん

「二胡の街、相模原を目指して!」


聞き手 椎野 紀子 特定非営利活動法人 さがみはら市民会議 副代表理事

椎野 笹本さんと二胡との出会いは?
笹本 1981年に相模原市の訪中団の一員として訪中して、無錫市を訪問したときに、人民公社の楽器工場を見学したら、二胡という楽器があって、何気なく買ってきたのがきっかけです。
当時は、ワシントン条約がなかったので、自由に持って来ることができたんですね。その後10年近く、自宅のタンスの上において放置しておりました。楽器を買ったことすらあまり意識しなくなっていたくらいです。
椎野 二胡とはどういう楽器なんですか?日本で言われる「胡弓」とは違うんですか?
笹本 胡弓という楽器は日本にもともとある楽器なんです。胡弓は三弦ですが、二胡は二弦なんです。日本の胡弓の音と近いということで、二胡を胡弓と呼んだのだと思います。しかし、音色は近いけど、きちんと聞くと違うんですね。中国では、二胡のことを「胡琴(こきん)」という言い方をしています。もっとも、便宜上、中国の演奏者も二胡を呼ぶときに胡弓という言うことも多いですね。我々の団体では、二胡という言葉を使っています。
椎野 楽器としてどんな特徴なんですか?
笹本 二胡は、軸が木で出来ていて、本体には錦蛇の皮が貼ってあります。二本の弦があり、弓は馬のしっぽで作られています。弓が弦にまたがっていて、弦から離れないところが特徴ですね。
椎野 先ほどのお話ですと、二胡に出会ってから、二胡に関わる活動をするまで、少し間があったんですね。それから、二胡に関わるようになったのはどうしてなんですか?
笹本 二胡を購入当時、二胡を教えてくれる先生が日本にいなかったんですね。私も、仕事をしておりましたから、あまり二胡を習おうとも思わなかったんです。
ところが、今から11年前に、二胡の演奏者に出会うことができました。楊興親(ヤン・シンシン)さんという方でした。
椎野 その方との出会ってすぐに、二胡を教えて貰うことになったんですか?
笹本 ひとつエピソードがあるんです。
私は、当時、中国語のサークルの童々(とんとん)に所属していたのですが、そこで出会ったTさんという高齢の女性がいらっしゃいました。Tさんは、自己紹介のときに、「私が中国語を習うのは、自分の息子が昭和21年に亡くなった都市の名前を微かに覚えているが、埋葬された場所などを自分の目で確かめ、墓地の砂を持ってきて、50回忌を迎えたいからです」という話をされたのです。
その気持にうたれて、なんとかその中国の都市を探そうとしていたんです。そういった矢先に楊興親さんに出会って、その話をしたところ、彼も親身になって相談にのってくれて、その都市とTさんの息子さんが埋葬されている場所も分かったんです。
その後、彼に二胡を教えて貰うことになりました。
椎野 楊さんとの出会いで何か、笹本さんの生活に変化があったんですか?
笹本 私と彼の二人の発案で、二胡の教室をやることになりました。
ところが、楊さんの奥様は日本人だったんですが、彼女が、くも膜下出血で、右半身不随、脳にも障害が残って話もできず、過去の記憶もなくしてしまったんです。
私も、自分の仕事がうまくいかない頃で、楊さんと二人でどうしようと悩んでいました。その時、楊さんが「僕が商品になるから、僕を売り出して欲しい」と言い出したんです。二人で二胡の普及と演奏活動をやろうということで、意気投合したんです。



笹本さん
楊さんと奥様が結婚したのが7月7日の七夕の日でした。その日に結婚したのは、七夕という行事は、日本と中国で行われているからだけではありませんでした。7月7日は、中国人には嫌な記憶として残っている濾溝橋事件の日でした。そこで、国と国は争いがあるが、中国人の男と日本人の女性として争いをしないという意味で、平和に思いを込めて7月7日に結婚したそうです。
そこで、七夕コンサートを、妻のためにも自分のためにも平和の思いも願って、行うことにしました。たまたまラジオで出会った永六輔さんや加藤登紀子さん、小室等さんたちが応援してくれました。
椎野 それから、二胡にのめり込むようになったんですね。
笹本 ええ。そのころ、楊さんから、阿炳(あーびん)という作曲家のことを聞き、その人が無錫市出身ということで興味が湧いたんです。
そこで、無錫市を訪れました。ちょうど、阿炳が生まれて100年にあたる年でした。現地で話を聞くうちに、中国でもっとも愛された作曲家を、自分だけの中にとどめておくだけではなく、相模原に伝えるのが自分の役目だと思いはじめたのです。
そこで、相模原でも生誕100周年の記念コンサートをしたいと熱心に話をしたところ、無錫市の音楽担当の方が、協力してくれることになりました。
まず、阿炳が実在しているときに見たことがある方を紹介されました。琵琶を肩からかけて、二胡を前に持ってならしながら町を歩き、とどまって歌ったり演奏したり、その日に起こったことを歌にしていたとのことでした。その方が、そのスタイルを絵に描いてくれました。その絵は、その後ポスターにも使っております。
また、無錫市の書道家にコンサートの題字を書いて貰ったりしました。
そんな協力もあって、生誕100周年記念コンサートはグリーンホールで無事執り行うことができました。
椎野 阿炳への想いは、その後も続いたんですか?
笹本 2000年が阿炳の没後50周年になるので、小さなコンサートを行いました。無錫から、二胡と琵琶の奏者を呼んで、コンサートをしました。その年に、今の二胡倶楽部「二泉映月」を立ち上げて、一緒に活動をし始めたんです。
椎野 笹本さんにとって、二胡との出会いが人生を変えたですね。
笹本 二胡という楽器が私の人生の、いろいろな場面を結ぶ点になってきたんです。二胡が無錫市、阿炳、二泉映月と繋がりました。Tさん、楊さんにも出会いました。二胡を買ってから10年の歳月の間に、色々な人に出会って貴重な体験をすることができました。
そう思うと、阿炳という人を日本に伝える役割は、自分のはじめからあった道かなと思います。だから、自分がやれる以上のものをやろうと思っています。
椎野 その後、相模原市と無錫市の交流という点で、何か活動をされているんですか?
笹本 1993年に、無錫市訪問の折り、阿炳の作品のコンクールがあって、自分も同席したんです。そこで、大勢の中国の子ども達が二胡などの演奏をしているのを見て、この子供たちを相模原にお呼びできるかなと思いました。
それから、5年くらいしてから、子ども達12名を相模原に招待をすることができました。8泊9日で一日がホテルであとはホームステイというかたちにしました。相模原に無錫の子供たちを呼びたいという会を作って、大勢のひとの協力を得ることができました。年に2回コンサートをしたり、さくらまつりに2回参加したり、餃子パーティーや寄付などで200万円を集めたんです。そのため、費用はこちらの丸抱えで呼ぶことができました。市には頼らないという気持ちがあったので。
椎野 友好都市ということで、無錫市の対応も良いわけですか?
笹本 無錫市の文化的な部署は、私という人物が相模原にいるということを引き継いでくれていますので、やりやすいところがあります。相模原市では人が変わると、最初から説明をしないといけないところがあるんですね。
市にお願いすれば広報もされるし、後援という形をとれば公民館や駅の掲示板などの公共施設に有料であっても高くなければ告知して貰えるという部分もあるので、不満もあるんですが、市とは協力していこうとは思っております。
椎野 友好都市のあり方についてどう思いますか?
笹本 今の状況で、果たして友好都市と言えるのかという疑問はあります。本当に友好都市とは何なんだろうと自問してしまいます。
私が考えるのは、友好都市なら、まず人間同士が仲良くなるのが自然なはずだと思います。今は、どういう部分で誰が何を進めているのか良く分かりません。市対市だけであって、無錫市民、相模原市民の個々の付き合いはあまりないのではないかと思います。肩書きで友好をしているだけなら意味はありません。スポーツなども交流はあるようだけど、無錫から普通の市民の人たちがこれる状態ではありません。
国際交流という言葉ももしかすると、もう新味がなくて、マスコミも、国際交流という言葉だけではペンが動かないし、足も動かないんじゃないでしょうか。友好都市という情報が伝えられているのかな・・・と思ってしまいます。
椎野 最近は、どんな活動をしているんですか?
笹本 2002年に、中国に演奏旅行をしました。
無錫市にある阿炳の記念館を訪問して、それから近郊の江陰市に劉天華という二胡の教育者の記念館があったので、「二胡のふるさとを訪ねる旅」ということで、行って参りました。その後、私たちの二胡の先生が南京出身だったので、南京も訪問しました。
無錫市の少年宮では、子供たちの父兄が多く集まってくれました。私たちはあまり演奏が旨くないので、笑われながら演奏をしました。終わってからの食事会で、少年宮の主任の方が「本日は、本当に良い日である。ここの少年宮は日本、相模原だけでなく、いろんな国の人が訪問してくれるけど、楽器を持って訪れた方はあなたたちが始めてで、とても嬉しく感じる。数週間前にステージができて、緞帳がお披露目の日だった。」とお話ししてくれて、我々一同、宙に浮く思いでした。みんなでもっと練習しようとまた、気持が盛り上がって参りました。
また、二胡のプロの演奏団である無錫市歌舞団も訪問しました。
歌舞団は、1981年に最初に無錫に行ったときに、詩を作って、曲をつけて無錫市民に捧げますと言ってプレゼントをしたら、意気に感じてくれて、歌舞団が編曲して、録音したものをラジオで「芸術散歩」というコーナーで流してくれたつながりがあるんです。
そこでも、彼らの伴奏をバックに、ソリスト気分になって演奏をさせていただけました。自分たちの中に尺八や薩摩琵琶をひけるメンバーがいたので、二胡だけではないところも演奏して見せたりしました。
歌舞団の団員も尺八は凄く興味を持って、尺八の奏者と交流関係になっています。歌舞団の方々は、自分たちは毎年日本に行くから、東京での演奏会のときは交流しようということになっています。
椎野 無錫市の一般市民との交流はあったんですか?
笹本 市内に、市民が集まる城中公園という大きな公園があります。日曜日には大勢の人が集まります。その中で、二胡を弾き、琵琶を弾き、歌を唄い、笛を吹き、自分ができる楽器を持って、みんなで集まっているんです。ダンスをしたり、ハーモニカがあったりして、市民がいろんな遊技で楽しんでおりました。
ところが、ガイドさんの話だと、これはリストラされた人たちであると言っておりました。定年退職ではなく、無錫もリストラも始まっているということでした。そういった話は、市民のところまで降りないと分からないことでしたね。現実を見せて貰った気がします。当日は、木曜日でした。
その公園で、自分たちも二胡を弾きました。日本の「荒城の月」を引いたら、拍手喝采でした。
椎野 南京はどうでした?
笹本 現地では、南京虐殺とか、過去の日本との経緯について、それほど感じさせられることはありませんでした。
私たちに二胡を教えてくれている先生が、南京芸術学院の卒業生だったので、そこの学校で院生と交流会をしました。
そこで、私たちの二胡の先生の恩師である馬友徳先生を相模原に招待して音楽会をやりたいと言ったら、非常に光栄であると言われました。
椎野 それで、お呼びしたんですか?
笹本 ところが、どうしてもビザが降りなかったんです。手紙・電話のやりとりを繰り返し、学校、本人もオーケーだけど、南京対外友好協会が出さないとのことでした。日本の外務省に相談しても、中国側が駄目なら駄目とのことでした。
日本で、中国の演奏家を招聘して音楽会をしている方々に相談したところ、やはり、南京の幹部の方は年輩の人だから過去の記憶から難しいのだろうし、もし、馬さんを日本に呼んでも、その人が中国に帰ったら、その人の今の地位は難しくなってしまうのではないか・・・と言われました。
そして、その方々に、「交流活動をして理解してもらうことは続けて欲しい。止めないで、心から交流を求めているということが理解されるきっかけになれば、良い活動だったのではないか。止めてしまうとそのままで終わってしまう。」と諭されました。
椎野 二胡倶楽部のメンバー数はどのくらいなんですか?
笹本
現在、35名です。2000年5月に二胡の演奏と体験講座を企画したのがきっかけです。演奏会には、100名以上の人が来ました。体験講座は20名という定員だったけど40名になったので、40名を振り分けて講座をやったところ、その中のその半数の人が倶楽部をやりたいということで、同年6月に二胡倶楽部を立ち上げました。当初は、若い方はいませんでした。40代、50代、70代が多かったと思います。今は若い人がおります。男性が7名で後は女性です。地域別だと相模原、町田、津久井、座間、海老名、大和、綾瀬、横浜の人がほとんどですね。
左:笹本さん 右:椎野
椎野 普段の活動の内容は?
笹本 第2、第4の日曜日に大野台公民館で練習をしています。公民館の行事には参加することにしています。また、市や地域の催しには積極的に参加することにしています。二胡をもっと伝えていきたいと思っています。
私の想いは、相模原と言えば、二胡のまちという風にしたいんです。厚木市は、ハーモニカのまちとして有名ですよね。一人が旗を降りはじめて数年前には世界大会をするまでになったんです。
市民活動団体の方々は、いろいろな想いがそれぞれ強くて元気な活動をしていると思いますが、私は、相模原を二胡が似合う街にしたいんです。二胡の愛好者は、全国で年間1万人ずつくらい増えているんです。
椎野 今後の活動目標がありますか?
笹本 できるものであれば、二胡を何台か手に入れて、学校のサークル活動や総合学習で二胡に触れるようなことをやっていただけるといいなと思います。また、高齢者の方にも、生涯学習という点でも、ぼけ防止には比較的良いと思うので、二胡に触れる機会を作っていきたいと思います。幾つかの公民館から、16年度の高齢者学級で取り入れたいんだけど、楽器を買う財源は市にはないから何とかならないかと言われています。そういうところに楽器を貸して、講師の工面をつけて二胡を伝えたいと思っています。子供と高齢者に二胡を学んで貰うということを目標としたいと思います。
そういった点で、文化国際課にも協力して貰いたいと思います。ワシントン条約に関わるものですが、友好都市という大義名分でスムーズに持ち込めるのではないか検討して貰いたいと思っています。岐阜県で、中国の都市と交流していて、二胡を30台無償提供をされたという話を聞いております。もし楽器があれば、学校の関係でも高齢者学級の点でも早めに活動ができると思います。二胡は一台3万円くらいです。無錫で買えば5000円くらいだと思います。
椎野 実際に、学校で演奏をされたことはあるんですか?
笹本 幾つかの学校で、子供たちを集めて、体育館で演奏しました。PTAから声がかかったんです。楽器を何台か持って、触って貰ってから、「この楽器を知っている人いますか?」と聞いたら、何十人かの生徒が知っていると言っていました。我々は、大野台公民館に二胡をおいてあるんです。触ってはいけないと書いていません。弦も切れたり、弓も駄目になったりするけど、二胡を伝えるためと思って、置いてあります。生徒たちも、実際に覚えていてくれるんですね。名前まで覚えてはいないけど、音は知っているようです。
学校から、子供たちからの感想を貰いました。今後も、いろいろな学校で、演奏をしてみたいと思います。
私が、阿炳の音楽・二胡という楽器を伝えるのが人生の目標と思っているのと同じように、子ども達も、自分自身の人生の目標を見つけてくださいとお話させていただきました。
椎野 二胡倶楽部は資金面では大変ですか?
笹本 市民活動は、お金がないと大きな活動は長続きがしませんね。倶楽部では、会費は大部分が講師の謝礼です。活動費が必要なのは音楽会くらいで、後はあまりお金を必要としません。我々も去年中国に演奏旅行に行ったので、エネルギーが溜まっております。
サポートセンターのオープニングにも出して貰いましたし、最近、自分たちの2年ちょっとの腕前を聞いてくれる人が増えてきた気がします。
国際交流ラウンジ、ボランティアセンターからも声がかかっております。また、市外の座間公民館からも声がかかっております。
椎野 今、二胡がブームなんですね。
笹本 そうですね。年輩の人がブームを押し上げてきています。テレビ等でも「女子十二楽坊」という中国の団体がはやっています。その中で二胡の奏者がいるんですね。そう言った面では、若い人をもつかんでいます。彼女たちは、現代の若い人に向くようにアレンジもしているですね。
市内で体験講座をしていると、各公民館で一人くらいは二胡を持っている方がおります。相模原で100人くらいは持っているんじゃないかと思いますよ。
椎野 笹本さんの二胡への熱い想いを聞かせていただきました。本日は、ありがとうございました。
笹本 ありがとうございました。



インタビュー日時 2003年9月1日(月) 於:さがみはら市民活動サポートセンター会議室
二胡倶楽部「二泉映月」のホームページは、
http://members2.jcom.home.ne.jp/niko-club2000eigetsu/です。